跡取り娘インタビュー
Vol.14 ダイヤ精機株式会社 代表取締役 諏訪貴子さん(前半)
それまで普通の主婦だった諏訪貴子さんは、2004年に、お父様の急逝により、32歳の若さで、町工場を承継する決断をします。折しも、パートナーの赴任先であるアメリカに同行する準備を終え、渡航の日を迎える矢先の出来事でした。アメリカへ行くのか、それとも日本に残り、町工場の経営を引き継ぐのか…。「正に、人生の岐路でした」とご自身の承継を振り返る諏訪さんに、大田区のダイヤ精機株式会社にて、お話を伺いました。
諏訪さんの、町工場を継ぐ決断とその後の奮闘ぶりは、ドラマ化(注1)されるほど劇的なものでした。お父様が会社で体調を崩し担ぎ込まれた病院で、医師から告げられた「余命4日」の宣告。その前年に、お父様は肺がんの手術をしていたものの、あまりにも急で、事業承継の準備を全くしていませんでした。その時諏訪さんは、お父様に余命を告げることなく、「私が会社を何とかする」との思いで、自らを奮い立たせて奔走します。町工場を誰が継ぐのか…。お父様が亡くなった悲しみに浸る間も無く、いくつもの現実が押し寄せました。
― 承継を決断されたのは、どのような気持ちからでしたか? アメリカ行きか承継か、非常に難しい選択だったと思います。
諏訪さん(以下、敬称略):本当に悩みました。父が緊急入院するその日までは、夫のアメリカ赴任に子供と一緒に同行する気満々でした。小学校一年生になる息子にとって、アメリカで学校生活を送ることは良い経験になると思いましたし、私自身もアメリカで勉強したいという思いから、留学の資料を取り寄せていたくらいです。しかし、父の急逝により、社葬までのわずか一か月足らずの間に、息子と二人で日本に残り、町工場を承継する決断をしました。
始めに考えたのは、「後悔しない道を進まなきゃいけない」ということでした。アメリカ行きは、再びチャンスが巡ってくるかも知れない、でも、ダイヤ精機は今を逃したら、もう、次のチャンスはないですよね? 夫も承継者候補にあがりましたが、私のことでアメリカ行きを諦めて欲しくないと思いました。幹部社員からは、自分たちのなかから社長を選ぶのではなく、貴子さん、社長をやってください」との話もあり、私以外に他の誰かが、社長をやってくれるわけもなく…。
当時、私の周囲に製造業の女性社長はいなくて、ロールモデルが全く見当たりませんでした。で、どうしよう…と。社長になれば、社員だけでなくその家族に対しても責任が生じるし、会社の借入金の連帯保証人にならなければならないし…と、不安でした。でも、3年やれば、万が一承継が上手くいかなくても、「あの娘、(ロールモデルが無いなか、)3年間、よく頑張った」と周囲に言ってもらえるだろう、「だったら、必死で3年間、頑張ろう!」と思い切りました。そして、何より自分自身が納得できると思いました。
幹部も含め社員のみんなから、「貴子さん、社長になって」と頼まれていましたが、奇しくも、決断のリミットは、月末の支払い期日と重なっていました。当時、協力メーカー先への支払いは手形を使っていたのですが、協力メーカー先の皆さんが会社に押し寄せて、「貴子さんが会社を継がないのなら手形を受け取らない」と言われたんですね。 追い詰められた感じになりましたが、「貴子さんが社長になるなら会社を辞めないし、支えます」と社員のみんなが言ってくれてるし、協力メーカーさんも私が継ぐなら支えると言ってくれたので、「やります!」と覚悟を決めました。
父の社葬は、代替わりの表明をする場と考えていました。「これから私が頑張りますので、宜しくお願いします」と、挨拶をする機会と捉えていたので、その日がタイムリミット。承継を決断したものの、社葬の前日まで迷いました。非常に難しい選択でした。
― いきなりの承継は本当に大変だったと思います。振り返ってどのように思いますか?
諏訪:承継してから半年は、「なんで、私が、ここにいるのだろう…。」という不思議な感覚でした。「あれ、お父さん、どこに行っちゃったんだろう?」と思ったりして…。無理もありません、父は突然亡くなりましたし、主人は側におらず、私は子どもと二人です。でも、決意して臨んだ「3年の改革」の間には、日々いろんなことがあり過ぎて…。本当に様々なことがありました(注2)。経営のド素人の主婦が、想定外に町工場を継いだのです。製造業の女性社長は今以上に少ないなか、若さで(笑)、何とか出来たように思います。
実は、父が亡くなる前に2度、ダイヤ精機に入社して辞めています。二度とも、父に請われて入社したのですが、売上高に対して人員超過の状態にあったことから社員のリストラを提案したところ、逆に私がリストラされました。でも、会社を離れれば父との間にわだかまりは全くなく、プライベートでは良好な関係が続いていました。
そんな経緯もありましたから、父と一緒に経営することは、恐らく不可能だったと思います。父が急逝していきなりの承継で、それはリスクとも取れますが、私にとっては、大きな経験となりました。父のやり方を全く見ていない分、私自身の考えをぶつけて、自分のやりたいように試せました。そういう意味では、むしろ、良かったかなとも思います。
承継して10年ぐらい経ったころから、「最近、先代に似てきましたね」と、生前の父を知っている方々から言われるようになりました。「何が似て来たの?」と聞くと、「先代も人を大事にする経営をしてました」と。父とやり方は違っても、目指したところは同じだったんだなと、心から嬉しい言葉でした。事業承継をしたことを、私のなかでは、「運命でなく、使命だった」「会社を次の世代へ繋ぐという使命」と捉えています。
― お父様はどのような方でしたか?ファミリー企業では、生活の中で自然と、承継者教育がされると言われますが、お父様の教育はどのようなものでしたか?
諏訪:父は、家族の間で「トイレの100ワット(笑)」と言われるほど、とっても明るい人でした。家族を笑わせるのが好きで、面白い人。めちゃくちゃ(笑)人好きでした。また、とても優しくて、私は、会社に入って初めて、父が声を荒げるのを見たほどです。
対する私は、小さい頃から人見知りで引っ込み思案、幼稚園時代はほとんどしゃべらない子で(笑)、よくしゃべる姉とは対照的に、おとなしすぎる性格でした。幼少期の私(貴子)と今の私とでは、別人だねと、姉には驚かれるほどです。
今では、「不安の回路が無いのかな」という感じなのですが(笑)。そうは言っても、初めての講演会では、マイクを握り締め過ぎてうっ血し、自分では手からマイクを外せず、ホテルマンに外してもらうほど緊張しました。どこか、幼少期の一面が残っているのかも知れません。
父は、見た目の清潔感には大変気を遣う人でした。髪型から着るものまで、いつもきちんとしていました。私も、「見た目の清潔感を保ちなさい」と、小さいころから躾けられました。会社の象徴という意味合いもあったのでしょう。「汚いおやじの社長のところに、若い社員が来るものか!」と、父が話すのを聞いたことがありましたが、工場でも、父はいつもスーツ姿でした。
小さい頃は、工場の3階に自宅がありました。その後、工場から10分位のところに自宅を構えるのですが、自宅から近いので、工場によく出入りしました。工場で、父に算数を教えてもらったり、卓球を一緒したりもしました。 小学生の時には、ご褒美の味噌おでんにつられて(笑)、父と一緒に取引先に度々行ったことを覚えています。私にここで数学を教えてもらったことを、記憶している社員もいるんですよ。
中学生の時に、父から試練を与えられました。父にひどく怒られたのは、後にも先にもこの一度だけです。私が通っていた塾には、ふたつのクラスがありました。それまで上のクラスにいたのですが、ある時、下のクラスに落ちてしまいました。悔しくて、泣きながら家に帰った私を、父は慰めるどころか、殴って、こう言いました。「お前がバカだから上がれなかっただけだ!」と。父に言われて悟りました。「自分が頑張らなかったからそうなった。私が頑張らなかったんだ」「人のせいではなく、自分に負けたんだ。」「自分の責任だ」と。その一件から、「自分に負けるのは嫌い」と意識するようになりました。
―多くのファミリー企業は、家族の歴史と密接なかかわりがあります。諏訪さんには、亡くなったお兄様がいたと聞いていますが…。
諏訪:ダイヤ精機は、兄の存在なしには誕生しませんでした。3歳で白血病を発病した兄の高い治療費を捻出するため、父は脱サラして、ゲージ工場を営む叔父の助けを得て、ダイヤ精機を創業しました。兄はわずか6歳で亡くなるのですが、治療のお陰で、余命半年と告げられてから3年生きることが出来ました。その後、生まれたのが私です。ですから、私は兄の生まれ変わり、男の子として育てられました。例えば、大学の進学先は工学部でなければだめといった感じでした。
私が生まれる前に亡くなった兄がいた、兄の代わりに生まれた私…。ですから、自分は兄の生まれ変わりだと、兄も一緒にいるという感覚を、いつも持っています。兄のことを負担に思ったことは、一度もありません。今でも家を出る時は、兄に「行ってきます」と声を掛けています。今では、「兄だったらどうするか…」と意識することはなくなりましたが、工場を承継して判断に迷った時に、そう思うこともありました。
兄の1歳上、私と10歳違いの姉は、いわゆる女の子として育てられました。進学先は英文科で、当時の多くの女性がそうであったように、結婚して専業主婦となり家庭を築くことが幸せと育てられました。同じ姉妹でも対照的に育てられましたが、父から、面と向かって、「後継者になって欲しい」と言われたことはありませんでした。私自身も、「将来、ダイヤ精機を継ぐことになるかもしれない」と意識したことは、一度もありませんでした。
ただ、「孫にダイヤ精機を継がせたい」と口にする父の傍らで、父から孫への、「経営のバトン」の橋渡し役として、私が経営に携わる時期が5~6年あるかも知れないと、ぼんやりと意識していたように思います。
―女性の事業承継は、男性の事業承継と違った煩わしさがあると思います。家庭とのバランスの取り方や、旧姓の使用について、お聞かせください。
諏訪:承継した年の秋、息子を連れて、アメリカに赴任中の夫を訪ねた際のエピソードです。別れ際に玄関で、「ママのことを頼むね」と夫に言われた小学校1年生の息子が、トランジットの際に私の荷物を持ってくれる姿を見て、胸が熱くなりました。息子も、幼いなりに状況を理解していて、息子には息子なりの覚悟がありました。夫も理解がありました。結婚生活の中で、ぶつかることもありましたが、私のことを理解してくれています。
夫の理解があるとはいえ、父がしていたように、仕事を家庭に持ち込まないよう意識しました。承継してから改革に取り組んだ3年間は、夜の会合や講演にはほとんど出ていなかったので、子供との時間もしっかり取ることが出来ましたし、子供には愛情が伝わるよう、一緒にいる時間の長さではなく、質を考えました。夫の帰国後は、私の帰宅が遅くなる時は夫に早く帰ってもらうなどして調整しました。共働きの家庭でやっていることをやったという感じです。家庭と仕事のバランス、家族との関係は、深く考えていたというより、状況に応じて対処してきたという感じでしょうか。
ただ、私の負けず嫌いの性格から(笑)、家庭のことも頑張りました。例えば、午前0時過ぎに帰宅した夫の食事も、温かいものを食べさせたくて、夫の帰宅時間に合わせて調理しました。私が承継したことで、食事の管理が行き届かなくなり、夫や息子が健康を損ねたと言われたくなかったのです。
夫は、アメリカへの赴任が2回、最初が2年間、次は5年間で、今2度目の赴任中です。夫は恐らく海外で60歳を迎えます。その後のことを考えて、一昨年、息子が二十歳になったタイミングで、卒婚しました。夫との関係は良好で、連絡も取り合いますし、友人のような心地よい関係にあります。
ダイヤ精機を承継した時に小学校一年生だった息子も、今、就職活動中です。息子の承継については、本人に任せています。ダイヤ精機を継ぐのもいいし、他にやりたいことがあるなら、それでいいと伝えています。今、私と息子の中間の年齢の社員を、私の右腕として育てています。これから先の10年間は、私が事業承継していくための準備期間だと考えています。
旧姓を名乗るようになったのは、リーマンショックを乗り切り、経営に曲がりなりにも自信がついてからです。それまでは、本名の「有石」姓を名乗っていました。なぜなら、もしも承継が上手くいかなくて会社を潰してしまっては、「諏訪」という名に傷をつけてしまうと思ったからです。父が、「諏訪」という名を大事にしていたことから、傷をつけるのが恐くて、「諏訪」姓を名乗る気になれなかったのです。
まずはやってみようと決めた3年を過ぎたあたりから、社会貢献、中小企業の活性化など、大義名分を経営目標にしなければ、と思い始めました。そこから少しずつ、新たな「自分の道」を歩んでいけるようになりました。良い時も悪い時もありましたが、承継から6年が経ち、リーマンショックを乗り切り、父の7回忌を終えられたことで、2代目の「諏訪」をビジネスネームで名乗ってもいいかな?と、思うようになりました。
そこで、姓名判断をしてみたら、「有石貴子」より「諏訪貴子」の方が字画は良いではありませんか(笑)。「諏訪貴子」は「大成する」とのことだったので、踏切りもついて、旧姓の「諏訪」をビジネスネームとして名乗り始めました。名前のお陰か(笑)、それから業績が良くって、昨年はリーマンショック後最高益だったんですよ。
(諏訪社長のインタビュー、後半に続く)
NHKドラマ「マチ工場のオンナ」(2017年放送、全7話)
承継後の改革については、インタビュー後半にて。
インタビューアー跡取り娘ドットコム 代表 内山統子
ファイン株式会社 代表取締役 清水直子
跡取り娘ドットコムパートナー 小松智子
『町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争』(2014)諏訪 貴子 日経BP