跡取り娘インタビュー
Vol.21 株式会社ダイワ・エム・ティ 代表取締役社長 和久田恵子さん
静岡県富士市に本社を構える株式会社ダイワ・エム・ティは、2021年3月に創業105年を迎える老舗企業です。軍需産業であった造船機械の木型製造に端を発し、製紙産業から自動車産業の発展を、木型メーカーとして支え続けてきました。そして今なお、上流工程としてユーザーと一体で開発を行うデザインデータセンターを神奈川厚木市に構える等、変革を続けています。
新幹線車両、航空機や宇宙衛星のレーダー等のデザインモデル、試作型の制作など、更に活躍の場を広げる株式会社ダイワ・エム・ティの三代目、代表取締役社長の和久田恵子さんに、事業承継と社内改革の経緯、ご自身からご子息への承継等について、伺いました。
―家業に入られるまでのことをお聞かせください。入社のきっかけはどのようなことだったのでしょうか?
和久田さん:地元静岡の高校を卒業後、東京の四年制大学に進学しました。アナウンサー志望でしたので大学では演劇部と放送研究会に所属し、ナレーションのアルバイトを経験したことから、広告代理店に就職。セールスプロモーション部門でイベントなどを担当しました。企画から収支計算まで行う一方、台本を自ら書いてはMC・ラジオでのナレーションをするなど、男女の別なくバリバリ働く職場で、時に涙を流すほどの大変さの中にもやりがいを感じ、仕事に打ち込みました。
高齢を理由に家業を手伝ってほしいと言い続ける両親を3年ほど待たせた頃、社内業務のウェイトが増してきました。それを機に、自分のやりたい「しゃべる」仕事で「やりたいことはやった」と自らを説き伏せ、29歳の時に地元に戻る決断をしました。
―華やかなお仕事をされていたところから一転、地元に戻り製造業へキャリア転換をされたのですね。そのことをご自身はどう受け止めておられましたか?また、当初から、事業承継をお考えだったのでしょうか?
大学からの東京暮らしで友人の多くは東京近郊におりましたし、ましてや、自分のやりたい仕事に就けているのに…と、年老いていく両親のこと、家業のことも気掛かりでしたが、「東京を離れたくない」のが本心でした。
静岡に戻ってからも、単発でナレーションの仕事を受けるなど、理由を付けては東京によく出掛けました。なかなか踏ん切りを付けられず、5年の間、東京のアパートを引き払えずにいたのは、「何かあったら東京で出直す」という選択肢を、当時の私は残しておきたかったのだと思います。
家業に入ったものの、周囲は「何もしなくていいよ」という雰囲気でした。仕事の達成感を胸に、仕事終わりに銀座へ繰り出す東京での暮らしと、用意された業務は特になく、17時に帰社という家業での暮らしとのギャップに、エネルギーを持て余しました。父が私に期待していたのは、家業を手伝いながら婿養子を迎え、次の後継者を生み育てること。両親は大正生まれで、元海軍の父は厳格そのもの、世代的にも女性を社長にすることは考えもしなかったのでしょう。
その後、婿養子を迎え承継を考えておりましたが、婿養子としての会社経営の難しさなどが相まって、数年後に互いの道を歩むことになりました。そういう経緯のなか、「自分が跡取りに」と私の意識は変わり、両親も「婿養子を後継者に」という考えを切り捨てたように思います。
―家業に入られた当初、和久田さんの目には会社はどのように映り、そして、どのような改革をしてこられたのでしょうか?お父様とのご関係はいかがでしたか?
私が入社した頃のダイワ・エム・ティは、良くも悪くも職人気質、旧態依然としており、「東京から一人娘が戻ってきて何ができる?」という反応でした。
父のやり方を横目に見ながら、会社として情報の共有がされていない点が課題と映りました。「情報共有の場としての会議」を開いて、見積りや利益等の数字を社員と共有していきたいと思いましたし、OA化で仕事を効率化したいとも思いました。
それらの気付きは、当時いち早くOA化を進めていた広告代理店での勤務経験があってのことでした。そこでは、イベントの見積りから売上そして利益に至るまで、社員自ら算盤をはじき、数字に基づく情報の共有がされていました。
とは言え、周囲からは何も期待されない中、まずは自分にできることを手探りし、父を説得して当時の副工場長のアシスタントとして営業に同行することにしました。商談・打ち合わせ時の議事録を作成し、共有したところ好評となり、副工場長に前職での経験が評価されるようになりました。すると、周囲の反応も、少しずつですが変わっていきました。また、給与計算等のOA化に取り組むなど、限られた中でも、一つひとつ実績を積み重ねていきました。
冷ややかな反応に屈せず、「現状を変えていこう」と現場の声を聴いて小さな変革を実践していくうちに、理解者が出てきて、社員数名で念願の会議開催に漕ぎ着けました。そうこうするうちに、「会議は仕事でない」と参加を拒んでいた社員からひとり二人と出席者が増えていき、やっと父も出席するようになり会議が定例化しました。すると今度は、財務面での情報共有に、父は難色を示しました。当時、案件ごとの収支計算は父の頭の中!その場で書いた計算メモは、くしゅくしゅポイっとゴミ箱に捨てちゃうわけです(笑)。あ、それ見せてください!収支計算の仕方を教えてくださいって感じで…。
「数字で可視化し、社員ひとり一人が利益を認識することが必要」との信念が私にはあったので、お付き合いのある経営者の方をはじめ周囲の協力も仰ぎ、自分なりの数字の出し方を構築していきました。
やはり壁となったのは、両親、特に父の親心でした。父にとっての私は、いくつになっても高校までの「わがままで何もできない可愛い娘」。社会に出てキャリアを積み、精神的にも大人になった私が意見を述べても、相手にしてくれません。それが悔しくて「自分はもっと色々なことができる!」とアピールしましたが、正面切っての提案は跳ね返されるだけ…。父とは幾度となく衝突しました。副工場長に、「もうよしなさい」と社長室の外へ腕を引っ張り連れ出されるほどの、激しいぶつかり合いもありました。
でも、ある時から、父が何十年も通してきたやり方を否定するだけではダメと悟り、父の面子を潰さないよう、接し方に工夫と配慮をする等、私自身を変えていきました。
―お父様は、娘の承継ということで、経営は保守的でいいと考えていらしたのでしょうか?
私が家業に入ってから、いくつかの大きな転機・決断がありました。例えば、2000年の工場の新築移転の決断では、バブル崩壊後の経済が冷え切っている時期でしたので、父は特に否定的でした。ですが、広い土地に大きな工場を建て、大きくてブランド力のあるマニシングセンタを導入するという「積極的な決断と投資」が、結果的には、お客様のニーズに対応できる会社としての成長に繋がりました。
―ご自身が社長になられて、何か変化はありましたか?
家業に入ってから父に向かって発した、厳しく時に刺々しい言葉の反省もあり、「父は、生涯現役の社長で」と心に決めていました。
父のやり方を否定することの多かった私ですが、実際に自分が社長に就いてみたら、ここまで会社を成長させてきた父の苦労がよく分かりました。同じ立場に立ってみて初めて、理解できることがありますね…。
私は文系出身で、三角関数も分からなければ、図面も読めません。「そんな私に、何ができるのか?」を考えた時、「この会社を支えていくこと」に徹しようと決めました。私の役割は、会社に良い人材を迎い入れ、現場の技術力を伸ばし、それらを生かせる良い仕事を取ってくること。そう捉えれば、前職の経験が生かせると…。今もその想いを変わらず持ち続けています。
―ご自身のワークライフバランスはどのように取って来られたのでしょうか?
私の場合は、「子育ても大事にしたい」と社内で宣言し、子どもたちが小学校に入学するまでは特に、周囲に助けてもらいました。社員の理解があってこそと、数えきれないほど沢山の「お願いします」「ありがとう」を伝えてきました。
その経験から、社員にも「同じようにしていい」と伝えています。私の実践が、気負わず隠さずにお互いを想い合える社員同士の関係性に繋がったのは、とても良いことだと思いますし、そういう点は、女性承継者の柔軟性だと感じています。
共働きで子育て中の男性社員が多いので、「パートナーと協力して」「会社に子どもを連れてきても良い」「面倒を見るよ」と伝えているんです。学校行事にも積極的に参加できるなど、ワークライフバランスの取れた会社でありたいと思います。
―4代目の承継を期待されるご子息が、家業に入られているとのことですが、ご自身の次世代への承継についてお聞かせください。
息子は将来の承継を見据え、大学では機械科を自ら専攻し、卒業後は海外留学で日本を外から見られるようにし、帰国後は他社で、職人の厳しさを経験しました。現在は、当社の現場で技術職として働き、社員の立場で色々な情報を得ているようです。1〜2年したら管理側の業務も始めて、経営の承継には更に10年程は掛かるでしょう。私も70歳過ぎくらいまで頑張ろう(笑)と思います。息子には地元の経済団体に加入するなど、社外の次世代の方々と交流することで、外の世界も見て知って欲しいと思います。また、娘も経理部門で私のサポートをしてくれています。
父は「勝手に見て覚えろ」と、経営について教えようという姿勢にないことが正直辛かったので、私から息子への承継では、資料を作成するなどの準備を既に始めています。
私が父の後継者だとはっきりした際に、「先のない会社にはいられない」と辞めた社員も数名ですがおりました。それは、私の能力というより家業での実績不足に起因していたのではないかとの思いから、今、息子には開発部門を任せています。社員をまとめる経験を通じて、実績を作ってほしいと考えています。
父にもいわゆる番頭(当時の副工場)がおり、私にも協力してバックアップしてくれる同年代の右腕(現・執行役員)が存在します。ISO取得で共に苦労を分かち合った当時の若手メンバーが、今や幹部となり会社を支えてくれています。
息子にも同様に、自身の右腕となるべき理解者を見つけていって欲しいと思います。
―和久田社長が、経営で重視してこられたのはどのような点でしょうか?
広告代理店での勤務時には、時代を先読みした提案により、企業が挑戦し売上を拡大していく姿を見る反面、歴史ある老舗企業や名の通った一部上場企業でさえも、進化をしないことで、立ち遅れ経営危機に陥る姿も、目にしてきました。伝統の中にも進化と挑戦、不易流行の概念が私のビジネス上の原体験となっています。
例えば、当時、カップ麺が登場しシェア争いが繰り広げられていました。老舗のインスタント麺の会社がどんどん追いていかれるのを目の当たりにしました。そこで、都内全域のスーパーマーケットを回ってはクライアント製品の陳列位置の確認をするなど、地道な市場調査、イメージ調査を行い、後発の追従をかわすための提案書を作成したことなどが、生きた経験となっています。
難しいことですが、常に新しいことを取り入れていく姿勢と努力が大切ではないでしょうか。どんな企業も、そして個人も同様に、そうでなければ生き残れません。次世代へのバトンを繋ぐためには、未来も視野に入れつつ世の中の流れに合わせ、常に挑戦し続ける必要があると考えています。
―最後に、跡取り娘のみなさんへメッセージをお願いします。
新社屋の建設や、CI(コーポレーション・アイデンティティ)、また、100周年のイベント計画も「キラキラと輝く企業であり、社員が誇りに思える企業にしたい」と思ってのことです。その根底には、幼いころから慣れ親しんできた家業への想いがあります。そしてもう一つ、私を奮い立たせたのは、私の承継を機に辞めた社員や、大手企業へと転職していった社員への意地です。「絶対にいい会社にしてやる!」という思いが経営のモチベーションに繋がりました。
ファミリー企業の事業承継では、ファミリーの人間関係とビジネスとが関わり合って、多様な出来事と悩みがつきものです。
貴方と同じ悩みを抱えている跡取り娘の仲間がここにいますよ。独りで悩まずに、共有し共感し合うことで、共に頑張って行きましょう!
インタビューアー
跡取り娘ドットコムパートナー 丸山祥子
執筆・編集
跡取り娘ドットコムパートナー 小松智子