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インタビューinterview

2020.02.17

建設会社を継いだ私が「自分らしい幸せ」を見つけるまで

跡取り娘インタビュー Vol.11 株式会社フェリタスジャパン 丸山祥子さん

跡取り娘インタビュー、本日はお父様から事業を引き継ぎながらも、最愛のパートナーを見つけ、その後、M&Aで事業譲渡を行った選択の数々をお伝えします。

大学院卒業後は、何をしたらいいか分からず、歴史から都市形成を研究していたので、地元愛知県の企業で設計などの仕事を手伝っていたという丸山さん。

輝かしいキャリアを積まれていたかと思っていた丸山さんも20代は試行錯誤の繰り返しだったそうです。派遣社員を経てお母様のご病気をきっかけに、80年余り続く建設会社を営むご実家に戻ることにしました。

建設会社の跡取り娘なのに3人姉妹、男性と同じようにと母には言われ・・・

お母様さまの育て方は丸山さんに特別な影響を与えました。

男性が圧倒的に多い建設業のオーナー経営者の家で3姉妹の誕生。「男の子が生まれなかったというプレッシャーがありながらの子育てだったのでは」と当時のお母様の思いを想像する丸山さん。

「女性は最初からできないという風潮の中、男性と対等にやれるようにと母に厳しく育てられました」

そんなお母様の思いを汲んでか、自立心を最初から身につけ、勉学に励み、ご姉妹はそれぞれ自分の職を見つけたそうです。お母様に一番似ていた丸山さんは、特にその方針にフィットし、20代までは頑張ってきたそうです。

転機はお母様がくも膜下で倒れたとき。

滅多に風邪もひかず健康いっぱいだった母親が入院・手術。見っともない程に狼狽するお父様を見て「これでは会社が大変な事になる」と父親の弱さを知った丸山さん。と同時に「今回は母親だったからよかったものの、父が倒れたら会社はどうなる?」と初めて創業家としての責任を考えました」

娘としての責任から入社するものの、父へ反発が始まる

その後、32才で株式会社丸山組に入社。

その頃、社長であるお父様は会社を畳むという選択肢も視野に入れていたそうです。

しかし、いざ丸山組に入ってみると20人余りの社員、その家族、丸山組を頼りにしている下請の存在を知ります。

「全部で200人くらいの生活を丸山組は負っていることを知りました」

また、会社に入ってはじめて施工会社の事業構造を知り、改めて会社を理解し、お父様の事業を引き継ぐことを決めたそうです。

3代目社長であるお父様が26才の時に、2代目だったお祖父様が白血病で亡くなっています。若くして会社を継いだお父様と丸山さんご姉妹とは、家庭での関わりはほとんどなかったといいます。

その反動もあり、入社当時はお父様へは批判的で、反発は相当でした。社員に心配されるほど、社長であるお父様に怒鳴る日々だったそうです。

「今思えば、小さい時に関心を持ってもらえなかった私の怒りが爆発した」とも話す丸山さん。

35歳のとき、「今から1年半後の2015年7月に私は社長になる」と父親に宣言をし、その言葉通り37歳の時に丸山さんは丸山組の代表取締役に就任します。

「37歳で社長になった時にはじめて、父親が感じていた重圧を知り、父親のことを理解できました」

建設会社の責任者として、建設現場の工事看板に代表取締役として自分の名前が載るプレッシャーが怖くて、社長就任前夜はほとんど眠れなかったそうです。

上棟式の写真(後列左から2番目が初代丸山才助氏)

専務取締役時代の丸山さんと社員の風景

父という存在を受け入れる

「会社に入ってからの7年で、父という人間を理解し、人間というものの深さを知ることができました。それによって社員との関係も変わってきたという実感がありました。自分が社長になった時、父親に対して『お父さん、40年もよくやって来たね』という言葉が自然に出たことを覚えています」

30代で事業承継をされ、交代直後は社内での権限委譲が進まなかったそうですが、お父様と相談して社員のいる執務室からは退いてもらったとのこと。

ご自分が社長になってから、「社長」と「会長」という立場でお父様に仕事の相談をするようになりました。

お父様との接点が少なかったという丸山さんが、教訓として引き継いだものは、「結局、自分でやらないとわからない」という言葉でした。

その裏にあるのは「自分でやってみたら何とかなる」という言葉だったと振り返ります。先代の急逝という慌ただしい事業承継の中、試行錯誤を繰り返した父親だからこその言葉でした。

代表を交代したものの、自分の幸せを模索する日々・・・

丸山組の代表になってからも、社員とのコミュニケーションを密にすることで、信頼関係を構築して現場を任せるという事が丸山さんの経営スタイルでした。

念願だった新卒社員を採用することができ、社内の若返りもできました。お父様が社長だった頃には、口下手で言語化できてなかったことを、書面やルール化して会社の方針を明確にするなど、代替わりしてからの変化は社内外で実感されていました。

しかし、社長としての自分が落ち着いてくると、丸山さんはご自身の人生について考えるようになりました。

「自分が楽しんでいるかどうかというより『やらないといけない』という義務感だけで社長をやっていた。そこが壁でした」

社長としての人生は定まったが、10年後もこの会社にいて自分は何をするのか、と思うようになりました。

「私の幸せって、何だろう?」

社長としての充実感はありながらも、ビジョンが打ち出せるわけではない。

「自分が社長として何がしたいかという熱意が見いだせず、悩んでいたのは覚えています」

社長になった時点で「結婚から遠のいた」という寂しさも一時期は生じていたものの、半年くらい経ったときに「会社は順調だし家族も社員も健康。私は十分に幸せなのだと」気が付きました。結婚への執着心が消え去った瞬間が、丸山さんに訪れました。

そんな時に、卒業したビジネススクールで、ご自分と同じ後継者であるご主人と知り合いました。

跡取り娘としての義務から自分を解放し、新たな道を見つける

丸山さんは、ご自身の婚約をきっかけに丸山組の譲渡を決心しました。

自分が自然体に近づいた時に今のご主人との出会いがあり、改めて「どのような選択が丸山組にとって最も良い道か?」をお考えになったそうです。

今のご主人をご両親に紹介し、結婚の許可はもらったものの、その翌日に会長であるお父様から「会社はどうするのか?」と丸山さんは聞かれました。

以前から会長とはM&Aという選択肢もあるよね、という話をしていたこともあり、丸山さんが「M&Aしかないと思う」と率直に言った時、会長は「そうだな」とすんなり受け入れてくれたということです。

そして、2017年1月から9ヶ月に渡る水面下でのM&A作業が始まり、同年9月、同じ三河地域の老舗建設会社への株式譲渡が決まりました。 そうして丸山組の代表取締役を降りた丸山さんは、第二の人生をスタートさせます。

M&A調印式 左が丸山組の親会社となった角文株式会社の鈴木社長、右が丸山会長

丸山さんが第二の人生でご自分の役割として見出したお仕事は『ファミリービジネス専門のファシリテーター』。

同族企業経営者として10年間、お父様やご家族との対話を重ねてきた経験から「経営陣=家族(血縁関係)ということに甘んじて、健全な対話がないことは大きな経営課題」という認識を持つに至ります。

そこで、第三者がファシリテートをすることで、同族企業でもスムーズな合意形成ができるように、プロフェッショナルファシリテーターとしての役割を見出します。

「ファミリービジネスに関わる以上は、受け継ぐものをどう理解し、整理していくか?という課題が課せられます。私の場合も、父との人間理解をすることで、奥底にある魅力も理解できるようになりました。」

「昔から、場の全体を掴んで『いまこの場に何が必要か』ということを察するのが得意だった」という原体験に基づいて導き出した新たな仕事。丸山組という責任から解かれた今は、組織に属さず俯瞰しながら、個人のスペシャリストとしての道を突き詰めたいそうです。

跡取り娘で会社を継いだとしても、丸山さんのようにキャリアを生かした第二の選択肢の人生もある。跡取り娘ドットコムも、個々の女性の幸せをお伝えしたいと思うインタビューでした。丸山さんの新たなるスタートを応援しています。


株式会社フェリタスジャパン

トラストビルダー ファミリービジネス専門のファシリテーター

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