跡取り娘インタビュー Vol.10
はさまや酒造店 第12代目当主かの香織さん
かの香織さんのキャリアは、実に多岐にわたります。
国立音楽大学声楽科在籍中に、伝説のバンド「ショコラータ」を結成、1985年にはメジャーデビューし、その後ソロに転向。現在は、シンガーソングライターであり、作詞家・作曲家として多くの楽曲を提供する、音楽プロデューサー。一般財団法人オーバーザレインボウ基金代表理事。そして、260年以上続く、老舗造り酒屋「はさまや酒造店」第12代目当主であり日本酒蔵人…。
紀尾井町サロンホールにある、かのさんのスタジオでお話を伺いました。
かの香織さん オフィシャルホームページ
紀尾井町サロンホール
内山:「はさまや酒造店」は、宮城県の酒蔵でいらっしゃいますね。大変長い歴史をお持ちの老舗酒蔵とお聞きしています。
かの:「はさまや酒造店」は、宮城県、くりこま高原にあります。その緑豊かな大自然の真ん中で、醸造元としてほんとうに永い間地元の皆様に支えていただきながら、こつこつと「桂泉」を造り続けて260年以上になります。創業は1757年、江戸時代中期です。文献ではそれ以前からも酒造りをしていた記録があるとのことで、それもあわせると、大変長い歴史をもつことになります。
でも、残念なことに、1978年の宮城県沖地震の影響で土蔵の蔵は倒壊目前となってしまいました。そこで、やむなく蔵を取り壊して、栗原市内の醸造元に仕込みをお願いするようになり、自分も酒造りを勉強し、関わるようになり今に至ります。
内山:かのさんが12代目という、大変長い歴史に驚きます。以前から事業を承継するという意識をお持ちだったのでしょうか?
かの:一人娘ですので、いつかは継ぐと思っていました。ですが、承継して当主になったのは、先に父が亡くなり、廃業に追い込まれたタイミングの2003年でした。大学から東京に来て20年ほどが経っていて…。地元を離れてそれぐらいの時間が経つと、自分が生まれ育った地域の方言が口をついて出てこない(笑)。それぐらい長い時間が経っていたのです。ですから正直なところ、私が承継するにあたりコンフリクトが全く生じなかったというわけではありませんでした。
内山:周囲の皆さんとの関係をどのように改善していったのでしょうか。工夫したことがありましたら教えてください。
かの:私って、「教えてもらうキャラ」なのです。周囲の方たちが、一生懸命いろいろなことを教えてくださるので、とても有難いことだと思っています。皆さんとのコミュニケーションのきっかけは、ちょっとしたことなのですが、こちらから話しかけて、少しずつ関係性を良くしていきました。
そして、「押しには引く」というのでしょうか、相手が強く出てきたら、引きつつ受け止め、自分からは押さないように心掛けることで、調和・バランスを意識したコミュニケーションが取れるよう工夫しました。イメージとしては、球体を保つというのでしょうか…。球体のなかでは様々な要素が動いていて、各々の要素はお互いに影響し合っているのですが、表面的には球体は球体のままあり続けるというような…。
小松:女性がお酒を造るということ自体が、当時はまだ珍しいことだったのではないでしょうか。そういうジェンダーの問題も含めて、造り酒屋の跡取り娘になることに、ネガティブな印象はなかったのでしょうか。
かの:そうですね。近頃は女性の杜氏や蔵人も珍しくなくなりましたが、以前は、女性は酒造りをすることが出来ませんでした。でも、そもそも日本酒は巫女さんが造っていたと聞きました。「口噛み酒(くちかみのさけ)」といって、巫女が噛んだお米でお酒を造っていたという説もありますし。
我が家も、蔵があった頃は、南部杜氏を筆頭に、雪が降る頃から寒造りを始め、三月に造り留めをするといった本当に風情ある昔ながらの酒造りに励んでいました。酒造りに関わる多くの方たち、地域の方たちとの繋がりを大切に、何かあったら助ける、助け合う、そんな関係性のなかで私も育ちました。例えば、災害で水が足りないと言えば酒造り用の美味しい湧き水を地域の皆さんのために供したりして、造り酒屋である我が家だけが良ければいいというのではなく、地域の皆さんへ感謝し助け合う、地域のためにということを優先して考える暮らしをずーっと続けてきたのです。そんな家風のなかで、女性はそれこそ家を守るということに徹底していましたし、生活のなかで様々な工夫を凝らして、それを楽しみながら、喜びを感じて暮らしていました。
ですから、杜氏が男性に限定されていた時代も、造り酒屋の女性達は、けっして虐げられていたわけではありません。お酒造りと地域との関りを担う者、家のことを担う者、つまり男性と女性は、お互いに認め合い、尊敬し合う関係性にあったと思います。むしろ、地域のため家のために最終的な責任を負うことを求められる男性たちは、おかみさんを始め女性には分からない大変さがあったのではないでしょうか。
小松:かのさんが12代目当主を承継するにあたり、ジェンダーの観点から特に感じたことがありましたら教えてください。
かの:語弊があるかもしれないのですが、女性はしがらみがないといいましょうか、発想が自由でいられる側面があると思いませんか?私が造り酒屋に入る決断をしたのは、クリエイターとしての関心、特にモノづくりをする職人への関心が背景にありました。両親とも先立った今、“わたし流”経営スタイルを近隣の造り酒屋の皆さんに認めていただきながら、12代当主/蔵人として、醸造酒を中心に、数種のお酒を無理のない量で造る方向性で営んでいます。
男性の承継でしたら、そうはいかなかったかもしれません。もっと地域との関係性を求められたり、専業とすることを求められたり、それが不可能であれば廃業という厳しい選択に至ったかもしれません。私が、音楽活動とオーバーザレインボウ基金という震災支援活動もしながら、当主/蔵人でいられるのは、女性であることで、「こうあらねばならない」といった既成概念から解放され、その代わり自分にできることをまた返していいと少し緩めていただいているのではないでしょうか。自分らしい承継スタイルをとることが出来て、とても有難いと思っています。
内山:かのさんが精力的に取り組まれているオーバーザレインボウ基金の活動内容について教えてください。
かの:オーバーザレインボウ基金 https://orf.jp/ は、2011年3月に発生した東日本大震災の被災地のなかで、最も強い震度7を記録した宮城県栗原市に設立した非営利支援団体・財団法人です。
今もなお、心のケアが必要とされる震災復興県・宮城県の心のケア事業に取り組んでいますが、特にご紹介したい活動は、① ワンソングプロジェクト=震災の影響で廃校となった校歌を、高音質・高解像度=ハイレゾリューションのデジタル録音で100年以上先の未来に伝えていく記録保存事業と、② 東日本大震災の復興県の青少年の心の支援として、自立支援に特化した海外合宿国際交流プログラム、農業体験、食育プログラムの定期的な計画と実施 のふたつです。
小松:何がきっかけとなり、廃校となった小学校の校歌を記録、保存しようという取り組みを始めたのでしょうか。
かの:震災後、皆さんに歌で元気を取り戻していただけたらと思い、ボランティアで被災地を訪れた際のことです。ご年配の方に「大切な一曲は何ですか?その歌を今お届けします」とお聞きした際の答えが、きっかけとなりました。そのご年配の方は「私は流行りの歌はさっぱり分からないの。でも、小学校の校歌を聞きたいわ」と話されました。その答えを聞いて、「小学校の校歌って、多くの思い出とともに誰しもの心の中にある歌なんだ」ということに気付きました。
震災の影響で廃校せざるをえなかった小学校の校歌は、次第に色褪せていく運命にあります。ですが、校歌によって想い起こされる、確かに人々が存在していたという記憶や、そしてこれからも生きていく活力になるような大切な思い出を、紡ぎ継ないでいくことで、心のケアができるのではないかという思いに至りました。
祖父母たち、父母たち、子どもたち、それぞれの、また皆が共有する思い出と未来の展望を、校歌という地域コミュニティーに普遍な音楽を聴きながら、楽しみながら語り合うような機会を増やすことで、未来に繋げていけたら、と強く願っています。
第一弾は、2016年の統廃合により聞くことが難しくなった宮城県東松島市立野蒜小学校と宮城県東松島市立宮戸小学校の校歌です。2019年1月26日に開いたワークショップでは、沢山の方々にご協力をいただいて、大盛況のうちに終了することができました。ワークショップを開く前は、若い世代の方たちはあまり参加しないのでは?と思っていましたが、予想に反して多くの若い世代の方たちがワークショップに参加してくれたことは、嬉しい誤算でした。「校歌は、世代を超えたパワーソングなんだ!」ということを痛感した瞬間でした。 https://www.youtube.com/watch?v=vNUO1n6GrcQ
これは、平成30年度宮城県文化芸術の力による心の復興支援助成金事業「廃校の校歌を通し、復興の心を歌い継ぐワンソングプロジェクト」として執り行いました。廃校校歌という、地域の文化的社会的資産を保存して承継していくことができれば、地域の活性化を推進していくうえで大きな助けになると考えています。
内山:校歌によって、色々な方たちの善意の輪が広がっていったのですね。
かの:宮城県出身の音楽プロデューサー、宮城県内で頑張るエンジニア、映像アーティストがスクラムを組んで制作することが出来ました。現地ワークショップでの記録映像、音声と資料をもとに、新たに本格的なハイスペックの機材が揃うスタジオで録音制作した2校の校歌は、いつでも誰でも聴くことが出来るよう、YouTubeに保存、公開されています。そして、YouTubeで聴くことに慣れないご年配の方たちへは、助成金で作成したCDを無料でお配りしています。
地元の皆さん、卒業生の皆さん、世代を超えた皆さんがひとつになってプロセスを伝える校歌復興ワークショップの記録映像(約9分のショートムービー)、ハイレゾ録音による校歌斉唱、伴奏の配信、無料配布のCD製作が実現しました。
内山:海外合宿国際交流プログラム/ケアロヒ・ハワイ東北青少年自然体験合宿についても、お聞かせください。
かの:このプロジェクトは、宮城県ゆかりのアーティストで結成した非営利団体・一般社団法人みやぎびっきの会(宮城県)として、 震災直後の2011年夏より取り組んできた「ハワイ レインボーキッズ プロジェクト」(英名「Rainbow for Japan kids」)を引き継いでいます。
現在はオーバーザレインボウ基金として引き継ぐ形で、さらに充実した内容になってきました。
子どもたちがハワイの大自然や伝統文化に触れ、ハワイのさまざまな人たちと交流することで心を開き、国際力を身につけ、広い世界へと少しでも目を向けられるようになることで夢や希望と共に未来に向かって強く歩いて行けるよう、自分力を育むことを願う、ケアロヒ/ハワイ青少年自然体験合宿としてプログラムを推進しています。
現在パートナー団体としてはハワイ州に設立された米国政府公認NPO法人Lokahi Foundationの主軸事業であるザ・チェンジ・アカデミーに毎年参加をしています。現状のままではいけない、自分の壁を乗り越えたい、地元社会の未来のために、ポジティブな変化を起こしたいという、日米高校生の熱い思いを形にする、インターナショナル・サマースクールへ復興県の高校生を参加させています。
様々な文化的背景を持つ高校生が出会い、交流し、共に学び合う。日米の青少年がハワイ島で合流し、豊かな自然と多様な文化の中で農や自然を五感で感じ、表現する体験型キャンプ。
短い期間ではあるのですが目をみはるほどの心の成長がある大きな意味のあるサマーキャンプで、できることならずっと継続していけたらと思っている事業です。
そして、2016年12月より、Rainbow for Japan Kidsの使命を引き継ぐかたちで、新しくなったハワイ側の主催パートナーと共に、震災復興県在住の青少年を対象にしたハワイ教育合宿を日本側復興支援事業として新たにスタートさせています。
一般的な観光旅行ではなく、「こころの支援」を目的としたこのハワイでの体験学習型合宿は、子どもたちが心を開いて、国際力を身に付け、広い世界へと少しでも目を向けられるようになることを願う方たちのご支援で継続的な実施が実現しています。すべての渡航費用や滞在費は、ハワイの有志の皆様、日本の有志の皆様、復興支援を目的とした企業様のご支援、子ども支援のためにと皆様からお預かりした寄付金、当財団が集めた支援基金、クラウドファンディング、そして日本やハワイのアーティスト、ミュージシャンの皆様の音楽活動の売り上げの一部から集めた心温まるご支援で賄われています。
先日、大変嬉しい出来事がありました。このプログラムに参加した当時小学生だった彼が、今では航空関連を勉強するの大学生になっていて、「ハワイでの体験プログラムの際に初めて乗った飛行機に感動して、その感動がずーっと心にあって、僕の人生の選択に繋がりました」と話してくれたことです。こうして、子どもたちが将来への希望や夢を持ってくれたことに、私も心から感動しましたし、このプロジェクトを続けてきて、本当に良かったと実感した瞬間でした。
小松:かのさんの様々なご活動は、「はさまや酒造店」を営むなかで綿々と受け継がれてきた家風による影響があるように思いますが、ご自身ではどのように思われますか?
かの:「はさまや酒造店」は、酒造りだけでなく、宮城の大正、昭和の女流歌人、原阿佐緒さん、俳優の菅原文太さんなど、多方面で活動されている表現者が血縁としてゆかりがあります。蔵で本を読んだり、新酒を祝ったりと、創造、クリエイティブの源のような場所が、「はさまや酒造店」だったと聞いています。
私のクリエイターとしての感性は、そういった綿々と続く「はさまや酒造店」の精神に培われたのだと思います。
「お互いを尊敬し合う。和合を保つ。雑音を出し合わない。」というのは、折に触れて祖父が口にしていた言葉です。12代当主として、「はさまや酒造店」だけを承継したのではなく、周囲の人や、地域との関わり方そのもの、地域への想いも共に受け継いでいると思っています。
「はさまや酒造店」の醸造酒はWebで購入できる。https://hasamaya.stores.jp/
「阿佐緒」は昭和の女流歌人、原阿佐緒がモチーフ。与謝野晶子にその才能を認められ、大正デモクラシー期にアララギ派の歌人として活躍した。
幅広いフィールドで、クリエイティブに活動されているかのさんの事業承継は、今までのキャリアを中断するのではなく、肩肘張らずにあくまでも自然体です。そして、醸造酒という商品だけではなく、260年以上の永きにわたり日本酒を造り続けてくることを可能としている狩野家の精神(家訓)は、かのさんの様々な活動の源となっています。人と繋がり、地域の方たちと繋がり、そして地域を最優先にする精神が、多くの方たちの共感を呼び善意の輪が大きく広がって、企業という枠組みを超えた活動へと繋がっています。
心温まる、貴重なお話をありがとうございました。
インタビューアー
跡取り娘ドットコム 代表 内山統子
跡取り娘研究家 小松智子