跡取り娘インタビュー Vol.12 ホッピービバレッジ株式会社 代表取締役 石渡美奈さん(前半)
「ホッピー」は、ホッピー、焼酎、ジョッキを冷やして割って飲む「3冷」を基本に、楽しみ方は十人十色!ルールに縛られずマイスタイルで楽しめるのが一番の魅力です。健康志向が高まるなか、低カロリー、低糖質、プリン体ゼロのヘルシーさが人気再興の火付け役に。
今回は、創業100周年の年に3代目社長に就任し、一時は8億円に落ち込んだ売り上げを5倍の40億円に伸ばした、ホッピーミーナこと石渡美奈さんに、ご自身の事業承継について、赤坂のホッピービバレッジ株式会社本社にてお話を伺いました。
ホッピービバレッジ株式会社
入社して5年での父の一言から事業承継を意識する
小松:先代から、どのように事業承継をされたのか、その経緯をお聞かせください。
石渡:私の場合は、ホッピーが発売55年を迎えて間もない2003年に「いずれお前に三代目のバトンを渡す」と、父からハッキリ言われて副社長になったのが「事業承継の」始まりでした。 私がホッピービバレッジに入社したのは、1997年ですから、入社して5年目。父からそう言われるまで、私が継ぐのか、継げるのかは、正直全く分からなかったんです。
父の言葉を聞いた時の率直な思いは、「わたし、いつかは社長になるんだ‥。なれるんだ!」。そして次の瞬間、「What’s 社長?」「What’s 経営?」という問いで私の頭のなかはいっぱいに。でも、何をどう勉強したらいいのかが分からなくて…。そこで、周囲の「番頭さん」の立場にいらっしゃる方々と会うたびに、その問いかけをし続けたところ、出会えたのが、「経営品質」と、中小企業経営で有名な一倉定先生の「経営計画」というふたつのフレームでした。「小さくてもキラリと光る会社をつくりたい」「経営は目に見える形で周囲に示す必要がある」と考えていた私は、「面白そうだな、学んでみよう!」と、好奇心が掻き立てられました。
一倉定先生はすでに他界されていたので、お弟子さんの、「世界の山ちゃん」の創業者でエスワイフード会長の故山本重雄氏が開く、名古屋の経営塾に月に一回通っていたこともあります。
他方、経営の現場である会社では、色々な出来事がありました。父は私を副社長に指名したのですが、父が社長で、私が副社長という関係性のなかで、私が現場で経営を実践していく姿を、「最後は俺が責任をとるんだから」と父は見守ってくれました。副社長という立ち位置は、父が広げてくれた安心の翼のなかで、色々なことを試せる期間だったのです。そんななか、私は、良くも悪くも様々な出来事、例えば、調布にある工場の工場長以下全社員が辞表を出すという事件を引き起こしたりするのですが、そういった一つひとつの経験が経営者として、私の血となり肉となっていったのだと、今振り返ると思えます。「あなたに継ぐことを決めたから、僕はもう口を出さない」と私に告げ、経営の現場で、失敗も含めて経験を積む私の姿を見守り続けて自分の言葉を守り抜いた父は、凄いと思います。
失敗を乗り越えて社長就任へ
2010年3月6日、祖父の命日に創業100年のタイミングで父から3代目を継いだのですが、副社長から社長になっても「大きく世界は変わらない」だろうと、社長就任前の私は考えていました。なぜなら、副社長時代に約7年掛けて引き継ぎをしてきたので、銀行やお客様との関係においても、特別な、改めての変化はないだろうと考えたからです。
ただ、経営者仲間の諸先輩方からは、「副社長の世界と社長の世界とでは全く変わるよ」と言われていて…。実際社長に就任してみると、その言葉どおり、副社長と社長との世界の違いを知ることになりました。例えば、お取扱店を社長である私が訪ねると「ホッピーの社長が来た!」と、社長である私=ホッピーと周りの見る目が全く変わることを実感したり、社長の私が訪ねたことをきっかけにお店の常連さんが「初めて」ホッピーを試して、その後は「ホッピーファン」になっていただいたり…。まずは、周囲の反応が変わりました。
2つ目に、私の意識のなかにも変化がありました。既に、副社長時代から「経営計画」は私が作成していたのですが、副社長時代には、自由にさせてもらいながらも、代表権のある父の会社だという遠慮と甘えが私の意識の中にありました。どこか一歩引いていたのでしょう。でも、代表取締役社長になると、そうは行かないわけですよ。いくら、父が代表取締役会長でいたとしても、父も私も互いに代表権があるのですから…。代表権があるのと無いのとでは、最終的な責任を負うか負わないか、責任の重さが全く違って、私の意識のなかから「逃げ」が無くなりました。
3つ目に、社員との関係においても変化がありました。副社長時代には敢えて突っ込まず見過ごしていたことも、社長となってからは、私が見過ごす事=それでOKという悪しき前例を作ることになるし、気になりながらも容認することで、私にとって好ましくない、社内文化の種を蒔くことになります。ですから、副社長時代のように見過ごすことが出来なくなり、社員に対してある意味厳しくなりました。社員からすると、同じことをしていても、副社長時代と社長になってからではその日を境に私の反応が激変したわけですから、特に若い社員たちは随分と戸惑ったことと思います。
最後に、三代目社長を拝命した時に父からこうも言われました。「俺の処遇はお前の好きなようにしていい。俺を邪魔だと思ったら、いつでも辞めさせていい」と。でも私は、最後まで現役のままの父を見送ると決めていたので、そんなことは考えもしなかったのですが、「大変甘い考えかもしれないけれども、社長として独り立ちするまでに最低でも10年は掛かると思うから、10年は一緒に代表権を持っていてください」とお願いしました。
その時から、9年半、約束通りのほぼ10年で父はこの世を去るわけですが、昔の切れっきれだった父はどこに影を潜めたのか、好々爺となった父が、切った張ったの経営を繰り返す私を見守り続けてくれたわけです。同時に、社員に対しても、会社のこと、商品のこと、仕事や人生観、働き甲斐、生き甲斐などについて語ってくれたことは、今から思えば、それは社員への会社の承継であり、私に経営を承継するだけではなく、社員に対しても商品や会社を承継していくプロセスだったのだなと。
「ホッピービバレッジ」という企業理念・文化を社員の一人ひとりに承継してくれていたのかと思うと、またもや父の大きさを痛感します。父から私が沢山の薫陶を受けてきたのと同様に、社員たちも父から沢山の薫陶を受けて来ていたのです。今いる社員たちは、私が副社長になった際に、「自分と志を同じにしてくれる社員を育てなさい」と、父から言われて採用し育てた社員たちです。ですから、彼、彼女たちを私一人で育てた気になっていたのですが、実は父も一緒に育ててくれていたのですね。
肩書に固執せず、本当に気持ちよく社長の椅子を私に譲った父は、今度は地元赤坂のお役に立つ為に私財を投げうって奔走しました。注1。赤坂氷川神社の祭礼「赤坂氷川祭」への協力など、地元のまちづくりを推進し、文化の復興にも寄与していきました。そうした流れに、私も社員も関わり巻き込まれていくのですが、その結果、父が亡くなった後、もうひとつ大きなものが遺されました。それは、「地元との繋がり」です。中小企業は地元との繋がりが非常に大切ですよね。それをも父は、きちんと遺していってくれたのです。
社員みんなで感じた会長から受け継いだもの。
こうして父は、私の副社長時代から、かれこれ約20年という長い時間を掛けて、私に事業を承継したのですが、事業承継とはオーナー家で経営を承継することだけでなく、父が社員たちにしてくれたように、社員一人一人がそれぞれの立場で、ホッピーという商品、そしてホッピービバレッジの資源、企業文化を繋いでいくことなのだと気付かされました。会長と社員との結びつきの強さを裏付けるように、父が亡くなった際には社員みんなが、母や私と同じように悲しんでくれて…。後に残されるのは、母と娘である私のふたりだけと思っていましたが、社員のみんなが悲しみを共有してくれて、社員を家族のように感じた瞬間でした。
振り返れば、父はもの凄い「承継劇」を演じてくれたなと、つくづくそう思います。父が亡くなった後、天から見ていてくれていると思うような出来事が会社に起こったりして…。「会長が亡くなって大変ですね」と周りの皆さんから言葉掛けいただきますが、父のお陰で、私のなかには会社の節目を乗り越えられるだけの受け皿=準備と覚悟が出来ていて、こうして動じることなくいられるのだと思います。私だけでなく、社員もそれぞれの立場で父から受け継いだものがあり、この節目を乗り越えていけるという自信に繋がっていると思います。
内山:お話をお聞きしていて、社員の皆さんとの関係が家族的であることが、印象的でした。その点についてお聞かせください。
石渡:創業者の祖父は、私が中学三年生の時に亡くなったのですが、それこそ、小さい時から工場にはよく連れて行かれた記憶があります。言葉で具体的にということでは無いのですが、祖父と社員との関係性について、子どもながらに感じるものがありました。父も社員とは家族のように接し、社員との関係を非常に大切にしていました。社員を家族のように大切にするということは祖父と父から教わったことです。社員の幸せを願うのは経営者の責任であり、社員には当社の仕事を通じて幸せになってほしいと思います。社員あっての会社だと思っています。
小松:長い時間を掛けて事業承継していくことは、ファミリービジネスの大きな特徴のひとつですが、そのことを意識していましたか?
石渡:「この会社で生きていこう」と決めて、父に「この会社に入りたい」とお願いした時から、入るなら跡取りとして入りたいという気持ちは、当然にありました。でもどうなるかは本当に分からなかったので、もしも、父が私を跡取りに選ばないのであれば、それはそれで受け入れようとも思っていました。本当にそうできたかどうかは分かりませんが(笑)。
「20年掛けて」というのは、父が亡くなってから認識したことで、その過程では無我夢中でした。私は、「跡取りになる覚悟」で、そして、「祖父、父が守り続けてきたこの会社を良い会社にしたい」という思いで入社しました。その思いは今も変わらず、ずっと持ち続けています。とはいえ、ここまで来られたのは、やはり、父が敷いてくれたレールがあったからかなと思います。
小松:父から娘への承継が増えつつあります。父から、同性の息子への承継なのか、異性の娘への承継なのかによって、親子のコミュニケーションに相違があるでしょうか?
石渡:父は非常に温かい人でしたが、仕事に関しては本当に厳しかったです。ですから、仕事のことでは衝突もしました。一時は、顔を合わせると衝突ばかりしていました。母が「息子を生んだ覚えはない」というくらいに(笑)。ですが、父と娘の関係だと、最終的にはどこかで譲り合えるんですね。娘に対してだと父親もどこか優しくなれるところがあるし、娘も父親にならどこか譲れるところがあって…。でも、父と息子の関係だと、最終的なところまでいってしまって決裂ということも、少なくないのではないでしょうか。
ですが、父と娘の関係だと、最終的にはどこかで譲り合えるんですね。娘に対してだと父親もどこか優しくなれるところがあるし、娘も父親にならどこか譲れるところがあって…。でも、父と息子の関係だと、最終的なところまでいってしまって決裂ということも、少なくないのではないでしょうか。
と言うものの、女性は往々にして感情的になりやすいところがあると思います。経営を担ううえでは、感情的にならないよう努めることも大切です。
(後半に続く)
注1:ホッピービバレッジ代表取締役会長の故石渡光一氏は、2006年に特定非営利法人 赤坂山車保存会を発足させ、貴重な文化遺産を後世に伝承することで、まちづくりの推進および学術・文化の復興に寄与すべく活動。2016年には、戦時中に焼失した「宮神輿」を70年ぶりに復元新調、申年に合わせて氷川山車「猿」を修復しお披露目巡行した赤坂氷川祭をバックアップした。
インタビューアー
跡取り娘ドットコム 代表 内山統子
跡取り娘ドットコムパートナー 小松智子
参考文献:『ホッピーの教科書』(2010)石渡美奈 日経BP
参考資料:ホッピービバレッジ株式会社HP