跡取り娘インタビュー Vol.7 株式会社三益 代表取締役 東海林 美保 さん(前半)    

東京都北区桐ヶ丘。マンモス団地内のシャッター商店街にある地酒専門の「三益酒店」
表からはわからないその場所は、昼間から角打ちも楽しめ、子ども食堂もあり、老若男女問わず足を運べるオアシスのような場所でした。

地域に愛されるお店づくりのヒント満載、インタビューです!

バス停留所から歩くと最初に見える商店街

株式会社 三益

内山:本日はどうぞよろしくお願いします!「三益」という名前と三姉妹での経営が特徴的ですが、お店づくりについてお話を聞かせていただければと思います。

東海林さん:うちは二個下の次女と、十個下の三女がいて三人姉妹なのですが、三人にそれぞれ役割があって、私はどんどん外に出て人脈を作るタイプで、営業活動をしています。次女は併設している角打ち(飲食スペース)。三女は角打ちを水、金、土、日と営んでいるので、そのスケジュールを作って、アルバイトのスタッフに指示をしたりしています。それが三人の役割です。

三益酒店って昔は三個場所がありました。今は一つですが、三個の場所にそれぞれ利益がありますようにと思いを込めて祖父が名付けました。私が三代目で三姉妹なので三に縁があるかなと思っています。

商店街の裏側にお店の入口。三益酒店のロゴがいい風合いを出してました

父がこだわりで始めた地酒ですが、実は仕入れがすごく時間がかかるのです。例えばこの獺祭がおいしいなと思って、売れるらしいということが分かったら旭酒造に今電話をしても新規の取引はしてくれない。売れる前の演歌歌手とマネージャーってよく表現される方もいますが、売れてから取引をお願いするのではなく、売れる前の卵の状態の時に仕入れるのです。
満州から命からがら日本に帰ってきて、安くても質が悪くても売れた時代が祖父の時代だったのですが、父の世代は規制緩和が起きて、コンビニでもスーパーでもお酒が売れる大変な時代となり、消費者にとっては便利でも、酒屋の両親にとっては大変な時代でした。

父はそれでも地酒をと、お金もないのに地方の酒蔵にどんどん行くのです。そんなある時に〆張鶴 との出会いがあったのです。父が飲んだ時においしかったので宮尾酒造に電話をしたのです。おいしかったから、仕入れさせてほしいと。普通は問屋さんだったら仕入れたいと言ったら感謝されるのに、丁重に断られました。 その時からコツコツと何回も足を運び、交渉することで地酒が一つ、二つと銘柄が増えていきました。これが私の幼いころからの父の仕事の記憶です。

大学生の時に、父に誘われて酒蔵に地方へ訪問しに行った時に、取引のない蔵だと、挨拶もしてもらえない場合もあったんです。 父が震えながら蔵の人と話しているのを見て、初めて酒問屋の仕事の大変さを実感しました。

お父様の代から仕入れ始めた。地酒を中心に数百銘柄が並ぶ

東海林さん:その時に、蔵の人に「三益酒店の色が見えない」と言われた時に、私はなんて答えたらいいんだろうと考えたのが原体験です。
ただ、苦労をしていた母の願いもあり、大学を卒業して大阪で就職し数年間暮らしていました。
大きな会社で通信販売の部署でカタログ製作をしていました。大阪に1人で暮らし、新入社員で覚えることもいっぱいありました。
いつかは酒屋を継ぐと思っていても、いつ継ぐかは自分でも明確なビジョンもなく、活き活きと働く先輩たちを見ていると、3年後、5年後はこのようになるのだなと思うようになっていたのですが、母が体調を崩したのをきっかけに家に戻りました。
家に帰って実感した事はお給料がないこと!これまで守られていた会社員から、23才で家業を継ぐこと。逃げられない、プレッシャーで大阪から東京までに帰るまでに泣いたのを覚えています。

内山:想像するだけで泣けてきます。すごいプレッシャーですよね。戻られてから家と会社の一番のギャップは何でしたか?

東海林さん:会社ってすごいなと思うところがOJTでちゃんと研修を受けて、給料をもらいながら勉強をしますよね。そうするとそれが常識になります。大学を卒業して、就職してよかったなと思う点です。 「ボロを纏えど心は錦」という父なので、雨漏りしていても、家は良いお酒を置いているからいいのだで終わったのでしょうが、一度外に出て、人様からお金を頂いて働いたことによって、改めて私はすごい所に帰ってきてしまったと感じたのを覚えています。 戻ってきてからは、お酒も知識がないので父の仕事について行けず、父に何か言っても生意気だと聞いてもらえず、最初は何をしたら良いかわからなくて、昼過ぎまで寝ていたこともあります。

父からの教え「自分の居場所は自分で作れ」

内山:会社員を辞めてまで実家に入ったのに辛い日々だったんですね。どこから変わったんでしょう?

東海林さん:お客様の前でも怒るので私の立場もありません。お客様も父のカラーのお客様で、私ではなく父に会いに来ているので、私は相手にされていません。耐えきれなくて泣いて横をふと見ると、次女も倉庫の裏で泣いているのです。
「戻ってこなきゃ良かったね」と姉妹で言っていました。
ある時に、私の居場所がないと父に言うと、「自分の居場所は自分で作れ」と言われたのをきっかけに、自分の場所を考え始めたんです。

そんな時に、次女が美味しそうなお店があるから一緒に行こうと、休みの日に誘ってくれたのが転機になったんです。

お店には、地酒が数種類並んでいて、月曜日に昼から渋いお酒を2人姉妹で飲んでいたらお店のマスターに話しかけてもらって・・・実家が酒屋で、お客様の喜ぶ顔が見たいと話していたら、唐突にお店をやってみないかという話をくれました。実は曜日限定でお店を貸していたのです。花金だからということで金曜を借りることにしました。

曜日で変わるので、あまり多くのお酒を置けないんです。実家でお酒を選んで、母親のママチャリを借りて私は、前三升、後ろ三升乗せて。妹は調理師免許があるので妹の料理を出して、私がお酒を出すというお店を開きました。
ブログで今日のおつまみとかお酒を発信していたら、「頑張る姉妹のお店」として、繁盛店になり、それが私たちの分岐点になりました。

お客様が自分たちのサービスを目的に来ていただけることが嬉しかったです!
二十四時ぐらいまで働いて、次の人のために掃除をして、二駅先から自転車で帰るのですが、そうすると夜中の二時で、次の日も朝十時にお店をあけます。自分の居場所を探していた時期ですが、がんばっていたら応援してくれる人がいました。大変だと思われてしまうかもしれませんが、すごく楽しい20代でした。

妹と私、二人欠けるので酒屋が回らなくなってしまい一度は辞めたのですが、震災の時にお酒が割れてしまって、父が大工さんに角打ちができるスペースを作ってもらって、それから父から私たちへと代わり、喫茶店での経験を思い出しながら、徐々にお店のファンを増やして行くことになりました。

後半に続く。自分の居場所を作り出し、三益酒店のブランドに着手して行きます。